雑談の広場



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[ 1233 ] Re:落日4-2-2
[ 名前:maxi  [ 日付:2010年11月12日(金) 02時55分 ] 
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普段より少し多くなった洗い物を片付けながら、彩子は娘が何故ジョンの散歩に行かないと言ったら喜んだのか不思議だというように首を捻った。
「毎日散歩に行っているのか?」
「えぇ……。あれよ、ジョンも私も運動しないと太ってしまうじゃない。結構、ダイエットにも効果があるのよ」
 誤魔化すように、彩子は毎日続けている散歩の理由を早口に言った。鈍感な夫は妻の微妙な焦りの感情にも気付かずに、納得したように小さく頷いた。
「なるほどね。で、どうして今日は行かないんだ?」
「拓雄さんが居るからよ……」
 一瞬、洗い物の手を止めた彩子が微かな苛立ちを籠めて呟く。その呟きは幸いにも夫の耳にまでは届かなかった。
「拓雄さんが居るから、夫婦で話をする時間の方が大切でしょ?」
 最後の洗い物を水切りに入れ、善き妻を演じて彩子は答えた。
「ああ、そうだな。――ところで、あゆみの夏休みの予定なんだが、母さんのところへ遊びに行かせたらどうだ? 
今年はいつ迎えに行けばいいのかって、せっつかれてな……。それで、彩子にはあゆみを預けている間、一緒に赴任先に来て欲しいんだが……」
「あゆみをお母様のところに預けるのは賛成だけど……」
 誰も観ていないテレビを消し、彩子が夫の向かいのソファに座る。ちらちらとガラス戸の外を気にしている妻を見て、何故か拓雄は少し苛立った。
「何か問題でもあるのか?」
「えぇ、その間、誰がジョンの世話をするのかしらって……。まさか、赴任先のアパートに連れてなんて行けないでしょう?」
 そう言って天井を仰ぎ見た妻の態度に拓雄が溜息を吐く。
「それならペットホテルにでも、獣医のところにでも預ければいいじゃないか……」
「イヤよ! ジョンの世話を他の人にさせるなんて! ――それにお金だって掛かるじゃない」
 ソファから身を乗り出し、すごい剣幕で飼い犬の世話を他人に任せることを拒否する妻の姿に拓雄は驚き、そして再び深く溜息を吐いた。
「――変わったな、彩子。前はジョンの世話なんか俺に任せっきりだったのに……」
「そうね。変わってしまったのかも……」
 夫から視線を逸らし、彩子はソファに深く身を沈めた。力なく自嘲めいた笑みを口元に浮かべて再び天井を仰ぎ見る。
「そうか……。でも、心配なんだ……。俺が居ない間に何かあるんじゃないかって」
 やるせない思いに拓雄は頭を抱える。
「心配しなくても大丈夫よ。ジョンが守ってくれるわ。色々と、頼もしいくらいにね……」
 天井を仰ぎ見たままの彩子が呟くように答えた。ソファの上で指が落ち着きのないリズムを刻む。
「それはそうかもしれないが、二人で話し合う時間を……」
「だからジョンを散歩に連れて行かないで、こうして話し合ってるじゃない!」
 バンと音を立ててソファを叩き、彩子は身を起こして叫んだ。目の前の夫が怯えた目をしているのに気付いてハッとする。
「ごめんなさい……。お風呂に入って、頭を冷やしてくるわ……」
 重苦しい空気から逃れるように、彩子はリビングに夫を残して出て行った。そして時を同じくして、ガラス戸に映っていた黒い影も姿を消していた。

「ごめんなさい。ここのところ暑い日が続いてイライラしてたの。拓雄さんに当たるなんて、どうかしてたわ。――本当にごめんなさい」
 ガウン姿の彩子は夫婦の寝室に入るなり、ベッドに座っていた夫の足下に跪いてその手を取り、深い反省の意を込めた瞳で謝罪した。
「いいんだ、彩子。俺の方こそ、さっきはすまなかった。――確かにジョンをどこかに預けるのは金も掛かるし、
ジョンも淋しがるだろうからな。でも、彩子のことが心配なのは本当なんだ」