雑談の広場



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[ 1244 ] Re:落日4-5-3
[ 名前:maxi  [ 日付:2010年11月12日(金) 03時02分 ] 
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家に一人きりで置いてきた娘のことをようやく思い出した彩子は、何事もなかったかのように汚れた靴を脱ぎながら、
帰りが遅くなったことを淡々とした口調で謝った。
「ママッ! そのお洋服、どうしたの!?」
 母親の姿がはっきりと見え始め、あゆみはその薄汚れた格好に驚きの声を上げる。尋常でない姿の母親に慌てて駆け寄り、抱き付いた。
「ああ、これ……。お散歩の途中で転んじゃって……。そう、足をくじいてしばらく動けなかったの。それに途中で夕立に降られて、
ジョンと雨宿りしてたら疲れて眠っちゃって……。あ、あゆみを一人で置いていってたから心配だったけど、ちゃんとお利口さんにして待っててくれたのね、エライわ……」
 すがりつく娘の頭を撫でながら、彩子は帰りが遅くなった理由を出任せに並べ立てる。だが、たとえその言葉が出鱈目であっても、
幼いあゆみには彩子の言う事を疑う術もなく、母親を信じている娘にとっての紛う事なき真実となった。
「いや……」
 不意に不思議な臭いを嗅いだあゆみが小さな声で呟いた。その臭いはなぜか、あのお風呂場での一件をあゆみに思い出させ、小さな躰がガタガタと震えだす。
「ん? どうかした?」
 母親の吐く息に、まるで動物の檻の前に立ったときのような、あの妙に獣臭い空気と同じイヤな臭いを感じて、あゆみの背筋に怖気が走る。
「う、ううん……、なんでもないよ……」
 そっと母親から躰を離し、うつむいたあゆみは震える声で答えた。母親が恐ろしい化物に変わっているような気がして、その顔を直視することができない。
「そう? ねぇ、お腹空いてるでしょ? ピザでいい?」
 娘の異変などには全く気付かない様子で、彩子はにこやかに笑い掛けながら、あゆみに夕食を出前で済ましてもいいかと訊いた。
「……うん」
「じゃあ、ピザを頼んだらママはシャワーを浴びてくるわね」
 うつむいたままのあゆみを置いて、彩子はいつになく明るい口調でピザの注文をすると、軽い足取りで浴室へと姿を消した。
 まるで悪夢を見ているような息苦しさをあゆみは感じていた。見慣れているはずの光景までもが歪み始める。
「違う……。ママじゃない……。あゆみ、きっと夢を見てるんだ……」
 悲痛な声で呟いたあゆみは、最近の嫌な出来事はすべて悪い夢なのだと思うことにした。
この受け入れ難い状況が現実であることを思い知らされるのが怖くて、自分の頬をつねることはできなかった。
 その後、久しぶりに食べたピザの味も感じず、明るい声で話す母親との会話も耳に入らず、
心を閉ざしたあゆみは眠りに就いた。朝になって目が覚めたら彩子が優しい母親に戻っている、そう祈りながら。

「あゆみ、起きなさい。学校に遅れるわよ」
 母親の声で起こされたあゆみは、朝の光を浴びてにこやかに微笑む彩子に思わず抱き付いた。
石鹸とシャンプーの爽やかな香りがして、やはり昨日までの恐ろしい体験はすべて夢だったのだと、あゆみは安堵の涙を浮かべる。
「あらあら、怖い夢でも見たのかしら」
 不意に泣き出した娘を安心させようとしてか、彩子が殊更に優しい笑みを見せる。目の前の優しげな笑顔に、あゆみは嬉しそうに微笑む。
「さあ、朝ご飯の用意もできてるわ。早く着替えて降りてらっしゃい」
「はーい」
 久しぶりに明るい表情であゆみは着替えと学校の仕度を急いで済ませ、母親の待つリビングに弾むように向かった。