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[ 1229 ] 落日4-1-1
[ 名前:maxi  [ 日付:2010年11月12日(金) 02時53分 ] 
落日 第四話「落日」

1

「ママ、もうお腹いっぱいなの?」
 学校での出来事を一方的に話しながらも夕御飯をほとんど食べ終えたあゆみは、
適当な相槌を打つだけだった母親がぼうっとガラス戸の外を見ていることに気付いて、諌めるように言った。
「ん? ああそうね、早く食べてジョンの散歩に行かないとね……」
 風呂場での出来事から数日が経ち、母親が恐ろしく思えたのは単なる思い過ごしだったのではないだろうかと、
あゆみは思い始めていた。実際、彩子はいつものように愛娘に笑い掛け、普通に家事をこなしている。
ただ、今のように庭に面したガラス戸の方を眺めてぼうっとしていたり、庭でジョンの世話をしていたりすることが多くなり、
毎日散歩に出掛けることも相俟って、娘と一緒に過ごす時間が減っている。そしてそのことが、甘えたい盛りの娘に不満と不安を与えていたのも事実だった。
「またお散歩に行くの?」
 このところ毎晩、彩子はジョンを散歩に連れ出して長い時間戻って来なくなっていた。
以前ならば一緒にお風呂に入ったり、学校での出来事を話したり、宿題を手伝ってくれたりした時間をあゆみは家で一人寂しく過ごさなければならず、
飼い犬の散歩の時間が近付くとどうしても不満げな声を洩らしてしまうのだった。
「そうよ。ジョンもお庭にばっかり居たら、飽きちゃうでしょ?」
 娘の不満そうな声など気にもせず、彩子は淡々と残りの夕飯を口に運びながら答える。
「うん……。でも、お外真っ暗だよ」
 夏の太陽が沈むまで辺りは明るく照らされるが、その分、後に訪れる夕闇はその暗さを際立たせている。どうしてかは解らないが、
飼い犬と散歩に出て行く母親を部屋の窓から見下ろす度に、このまま母親が帰ってこないのではないかという不安にあゆみは苛まれていた。
「明るい道を通っていくからいいの。それに夜は涼しかったりと色々都合がいいのよ。――さ、あゆみもお夕飯を食べ終わったら、先にお風呂に入って早く寝なさい」
 そんな娘の不安をよそに、彩子は夕食を終えると食器を手に立ち上がった。あゆみも母親の行動に倣って自分の食器を手に立ち上がり、その後について行く。
「ねぇ、ママ。お勉強で解らないところがあるから、教えて欲しいの……」
 すがるような思いで、あゆみは自分に構って欲しいがための嘘を咄嗟に吐いた。
「もう……。そういうことはお夕飯前に言ってちょうだい」
 鼻歌交じりに食器を洗っていた彩子は、うんざりした調子で言って溜息とともに傍らの娘を冷たい目で見下ろした。
母親の機嫌を損ねてしまったのではないかと、あゆみが身を竦める。
「ごめんなさい、ママ。やっぱり、いい……」
 やるせない思いを抱えながら、あゆみは聞き分けの良い子であることを選んだ。
「そう? あゆみ一人で大丈夫なのね?」
 面倒なことをしなくて済むと分かって、表情を和らげた彩子が洗い物を続ける。
「うん……。ママ、早く帰ってきてね……」
 上目遣いに母親の表情を盗み見ながら、あゆみが呟く。
「あら、もうこんな時間……。ジョンが待ちくたびれてるわ」
 その呟きに気付きもせず、彩子は洗い物を片付けるとさっさとキッチンを出て行ってしまった。
唇を噛み締めているあゆみを一人残して。

 


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