第1章:おまえたちは社畜だ

正規の新人研修で修了書をもらえなかったのは、私を含めても3人だけだった。

ミニバンに詰め込まれて3時間。落ちこぼれの私たちは追加研修合宿を受けるため、とある山腹にある研修所へと送りこまれた。普段は会社の保養所として使われている建物で、小規模ながらそれなりの宿泊施設がある。こぢんまりしてはいるが割と贅沢な設備があって、乗馬も出来るし、周囲の森の中へ通じる散歩道とかもあるらしい。4月末からのゴールデンウィークを、私たち3人はここで過ごすのだ。山の中腹に孤立した研修所は周囲に人家とて無く、ただ鮮やかな新緑に萌える木々が、まだ冷気を宿す春風に梢を揺らしていた。

静かで生気にあふれたこの場所で、でも私たちは不安と緊張で震えていた。この研修合宿で修了書をもらえなければ、5月中旬に行われる入社式には出席できない。だからといって解雇処分とかになるわけではないが、1年間は見習社員という屈辱的な身分になるし、そして来年の春には、新たな新入社員に混じってもう一度研修を受けるという、もっと屈辱的な仕打ちが待っている。いくらなんでも、それはあんまりだ。私たちは、今度こそ修了書をものにしようと、必死だった。

車を運転している間、合宿の付添役でもある人事課長(実は、私の父でもあるのだが)は、ずっと無言だった。私たち3人の新入社員も、無口だった。ただし無口なのは、不安や緊張のせいばかりでも無かったが。

左の窓際に座っている藤堂さん(名前は玲子というらしい)は、背筋を伸ばしてまっすぐ前に視線を向けたまま、まるで氷の壁に囲まれたように孤高を保っていた。噂をもれ聞いた限りでは、なんだか難しそうな資格を在学中に5、6個ほど取ってしまっているらしい。英語・フランス語・中国語が話せて、さらにはテニスかなにかの腕前は全国レベルだそうな。こんな人がどうして研修に落ちこぼれたのかと思うが、しかし確かに、正規研修中の彼女の班は内輪もめがやたら多かった。単なる議論どころか、怒鳴りあいの口喧嘩といったほうが良いような騒ぎも、何度かあった。その騒ぎの中心には、いつも彼女がいたような気がする。きっと、出来が良すぎて周囲と合わなかったのかも知れない。大学は奨学金で出たというから、けっこう頑張っている人でもあるのだろう。そこそこの質でレポートをでっち上げてそれで良しとするような人たちとは、そりゃ馬が合わないに違いない。きっと隣に座っている私のことも、大同小異だと思っているのだろう。ちなみに、長い黒髪の美人だ。

右の窓際に座った浜緒さん(下の名前は千香だそうだ)は、ちょっとぽっちゃりした、色白の女の子だ。ほんわ〜、と微笑みを浮かべて、流れ去る車外の景色を眺めている。こちらは、なぜ落ちこぼれたのか、はっきりしている。ぼんやりし過ぎているのだ。いや、良いとこのお嬢さんらしいんだけど、それにしたって、おっとりし過ぎている。すべての行動が、2テンポは遅い。よーいどんで食事のデザートを食べ始めたとすると、他の人が平らげる頃、彼女はやっと一口目を入れようと口を開けたところ、という有り様だ。ちなみに実話だ。そんな人だから、隣に私が座っていることも気がついているかどうか。

そして、その二人にはさまれて所在なげに座っている、私。ああ、いったい何で落ちこぼれちゃったんだろう? やっぱり、毎日の課題レポートに誤字脱字が多すぎたせいだろうか。「直す前より間違いが増えている」なんて嫌みを言われたこともある。緊急集合の合図を聞き逃して、独りでのんびり休憩してたのが良くなかったんだろうか。誰もカフェテリアに来ないから変だとは思ったけど、でも私が大会議室を出た後に合図が出たんだもん、私が悪いわけじゃないわよ。そう言えば、つまずいてコーヒーをそこら中にぶちまけちゃった事もあったっけ。あの時は大変だった。研修担当の先輩のノートPCにもろにかかっちゃって、その日は2度と起動できなかった。そのノートPCには、翌日の課題とか、全員の進捗状況とかのデータも入っていたらしいが、あの後、無事に起動できるようになったんだろうか。でも、そんな事はどうでもいい。私は、落ちこぼれるほどの失敗を、何かしただろうか。不安と猜疑に苛まれ、私は唇を噛みしめて俯いているほかなかった。

◆ ◆ ◆

私たちは研修所に到着すると、まっすぐ所長室へと向かった。研修所の中はひっそりとして、まったく人気がなかった。ゴールデン・ウィークだというのに、誰も保養所として使っていないようだ。それとも、会社の保養所なんて、そんなものなのだろうか。

研修所の所長は初老ながらがっしりした体格の、日焼けした厳格そうな人だった。

「この研修の目的は」と所長は言った。私たちは直立不動で、彼の訓辞(そうとしか言いようがない)を聞いていた。「この研修の目的はあなたたちに、他者への思いやりと、奉仕の心を会得してもらうためのものです。あなたたちに足りないのは、それだけです。これまでの自分を捨て、まったく新しい女性となって、この研修を終えて欲しいと思います」

言っている言葉はごく普通の内容だったけれど、まるで私たちの反応を観察するかのような視線で、一言々々を冷たく押し出されるように言われると、これからいったいどんな厳しい研修を受けさせられるのかと思ってしまう。父が……つまり課長が、私たち3人分の制服を取り出し、机の上に並べた。所長はそれが終わるのを待ってから、言葉をつづけた。

「これは、あなたたちが着る制服です。研修中の着衣はこれ以外は認めません。たとえ自由時間であっても私服は不可です。替えはありませんから大切に使って下さい」

そして彼は、言葉を切ってじっと私たちを見つめた。

「この研修は」ゆっくりとした、しかし有無を言わせぬ迫力のこもった喋り方だった。「非常に厳しいものです。であればこそ、反抗的な態度はいっさい認めません。言われたことには、即座に従うように。例えそれが、どんなに理不尽なことであっても」

不意に、部屋の空気が凍りついたような感じだった。所長の言葉は、何か恐ろしいことを意味しているような気がした。

「細かい理屈は言いません」あくまでも静かに、所長は言った。「今、ここでは、あなた方は一人前の人間としては扱われない。あなた方は、いわば社畜です。命じられたことに従いなさい」

部屋に、沈黙が降りた。

「返事をせんかっ!!」

所長の怒号が響いた。まるで、それまでじっと佇んでいた休火山が、溜め込んだエネルギーを爆発させたような感じだ。

「は、はぃっ」ばらばらと、泡をくった声で返事が返る。

「もう一度言う。おまえたちは社畜だ。命令されたら、必ず服従しろ」

そんな!! さっきとはニュアンスが全然ちがう。

「返事はっ!!」

「はいっ!!」反射的に答える。

「……」所長は険悪な目つきで私たちを睨みつけ、そして言った。「では、今から研修を開始する」

◆ ◆ ◆

所長は机を廻って、ゆっくりと時間をかけた歩き方で、私たちが立っている前へと移動してきた。やけにもったいぶった歩き方だった。

「何をしている?」

私たちの前に立って、所長は言った。どうしたらいいか分からず、私たちはただ、立ったままでいた。

ばぁん!! と音を立てて、浜緒さんの頬にビンタが飛んだ。ものも言わず、浜緒さんは後ろの床に倒れ込んだ。「ふ……ぐ、うぅっ……」打たれた頬を抑えて、浜緒さんが呻く。

「おまえ!!」所長の指が、ぴたりと私に向けられた。「おまえが着ているのは、何だ?」

私が着ているのは、紺色の、ごくありふれたスーツだった。別におかしいところはない。この研修に来るとき、特に服装の指定はなかったし、正規の研修の時にもこのスーツを着ていたのだ。

「スーツです」私は答えた。

「それは、会社の制服か?」

「いえ、違います」

「では、私服だな?」

「はい」

ばぁん、と私の頬が鳴った。はっと気がつくと、私の体が床にぶちあたるところだった。

「研修中は制服以外認めんと言ったはずだ」床にうずくまった私の上に、所長のセリフが降ってきた。「そして、おまえだ!!」残された藤堂さんに、所長が詰め寄る。

「はいっ!! 申し訳ありません!!」寸暇を置かず、彼女が答える。「すぐに着替えます!!」

「よろしい」所長は満足したようだった。「おまえたちも、ぐずぐずするな。さっさと立って着替えろ」

「あの、すみません……」藤堂さんが決死の覚悟で割りこんだ。これ以上ないほど緊張しているが、うかつなことを言えば、間違いなく殴り倒される。緊張して当然だろう。「その……更衣室はどちらでしょうか……あっ!!」

聞き慣れた乾いた音とともに、彼女の体が棒きれのように倒れる。

「立て」所長が命令した。

「は……はい……」

足元をふらつかせながら、彼女は立ちあがった。殴られた直後だというのに、大したものだ。殴られた時の音からして、私や浜緒さんが殴られた時より手加減されたとは思えないのに。私たちは膨れあがった頬を揃えて、所長の前に直立不動で整列した。まだ着替えてはいない。また殴られるかも知れない。

「おまえは、何だ?」所長は殴らなかった。だが藤堂さんの前に詰め寄って、そう言った。「今のおまえの立場は何だ? 言ってみろ!!」

「私は……」彼女は一瞬、言葉に詰まった。「私は……社畜です」

「社畜とは何だ?」

「その……動物です。会社に飼育されている、動物です」

「動物に更衣室が必要か?」

「……いいえ」

「そうだ。確認するぞ。おまえに更衣室が必要かどうか、その理由も含めて言ってみろ」

「私は……」彼女は悔しさで泣きそうだった。顔色ひとつ変えはしなかったが、そう思えた。「私は社畜ですので、更衣室は要りません。この場で着替えさせて頂きます」

「更衣室が要らないのはおまえだけか。他の二人は、どうなんだ」所長はたたみかけた。「藤堂、おまえが答えろ。他の二人はどうだ。更衣室を用意してやらねばならんのか?」

「……他の二人も、社畜です。ですから更衣室は要りません」

「ここには私と、人事課長の……」所長はあごで私の父を指した。「……彼が居る。二人とも男だ。着替えるところを見られても構わんと言うのか? おまえの事じゃない、他の二人のことだぞ」

「はい……」屈辱だ。「……私たちはみんな社畜です。だから、着替えを見られてもどうと言うことはありません」

「よろしい。とっとと、着替えろ」

◆ ◆ ◆

用意された制服は、薄いピンクのベストとスカートに、真っ白なブラウス、濃い赤の紐リボンの組み合わせだった。まあ、ごく普通の女子社員用の制服だ。私たちは黙々と服を脱ぎ、畳み、そして制服を身に着けた。所長は、窓の外に目を向けたまま、私たちのほうは見向きもしなかった。父も、どこか明後日のほうを向いていた。私も、二人のことはあえて無視することにした。それ以前に、この状況で気にしても仕方がないのだが。

ふと気になったことがあった。今、質問しても大丈夫だろうか。おそるおそる、私は言った。

「あのう……質問してもよろしいでしょうか?」

「なんだ?」所長は窓の外を見つめたまま、微動だにせず答えた。

「あの……下着は、このままでも良いのでしょうか?」

「何ぃ?」所長はくるりとこちらを振り返った。あり得ない生き物を見るような目で、私を注視している。「下着が、どうしたと言うんだ、ええ?」

私はしどろもどろになった「いえ、その、下着は、ええと、今までどおりのを着けていても良いのかと……」所長の目に厭世の色が浮かんだような気がする。両脇からの藤堂さんと浜緒さんの視線が、痛い。何かとても場違いなことを言ってしまったような気がする。父が、小さく咳払いした。

「すると、何か?」何の情熱も浮かんでいない顔で、所長は言った。どうやら本気で、私たちの下着姿には興味ないらしい。「お前は会社の制服を着る時、下着は着けないほうが良いとでも言うのか? まあ、別にかまわんがね、お前がそうしたいと言うのなら」着替え途中の私に、彼はじろじろと視線を這わせた。「そうだな、お前はそうしろ。下着なしだ」

「え……いえ、その……」

「命令だ。研修中は下着無し!!」

「……はい」

というわけで、私だけ下着を着けないことになった。ブラを外し、ショーツを引き下ろす。腕組みして仁王立ちになった所長が、じいっと私に注目している。なんで、こういう状況になってから見るんだろう。素っ裸になった私は、素肌の上にブラウスをはおり、リボンを結ぶと、スカートを穿いた。最後にベストに袖を通して、終了。ブラウスの生地は少し粗く、乳首が擦れて痛い。足元も何やら頼りなく感じる。

私たちが着替え終わったのを待って、所長は父に段ボール箱を持ってこさせると、私たちの服をそれに詰め始めた。私の下着を箱に入れる時、一瞬、彼はそこに注目し、ふんと鼻で嗤った。かあっと顔が熱くなった。私だって人間だ。染みのひとつくらい付くことはある。彼は何事もなかったかのように、私の下着を箱に詰めた。



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